04 October 2009

性的トラウマの回復

再確認したいのは、僕の性的トラウマは僕の偏執が原因だったわけで、偏執があって妄想が拡大していた間は非常に苦しかったわけだけれど、時間がたってほどほどポジティブな経験をした後になってみれば、偏執は解けてしまって、もうあまり苦しまなくなった。後で時々痛むことがあるかもしれないが、それによって精神が停滞してしまうようなことはないかもしれない。要するに古傷になったのだ。ベトナムシンドロームのようにならないことを祈る。

22 August 2009

意識 短期記憶 長期記憶 (仮説)

短期記憶容量(PCで言えばメモリ)が少ないアスペルガーにとって、頭脳をフルに働かせるためには、長期記憶装置(同じく、HDD)をフル活用しなければならない。短期記憶にメインにするのではなく、その背後にある長期記憶をメインに情報処理をすることで、アスペルガーとしてのハンデを軽減することができる。 そのためには短期記憶領域を意識と長期記憶領域がつながるパイプとして捉え、そのパイプを通じてよりスムーズに情報が出入りするようにする必要がある。短期記憶領域が情報であふれ返っていては長期記憶にアクセスできなくなり、狭い短期記憶領域でその場限りの計算をすることになる。短期記憶が弱いアスペルガーは言ってみれば、短期記憶領域のパイプが細くて狭いわけだから、特に注意してパイプがつまらないようにしておきたい。

短期記憶領域に詰まり、豊かな思考を妨害するものを2つ挙げる。
1.社会的プレッシャー Social Pressure
アスペルガーは社会的プレッシャーに特に弱く、強いプレッシャーを受けると長期記憶にアクセスできなくなる。
2.執着 Obsession
ある特定のトピックに短期記憶が占められている状態。アスペルガーは特定のものに強い執着を持つことが多い。それはそのトピックについて考えるにはよいのだが、短期記憶がそれに占められてしまっているため、それ以外のことは考えられない。たとえて言えば、パイプに油が詰まっている状態。油は自由にパイプを行き来できるのだが、水(それ以外のトピック)は油の存在により通り抜けることができない。

アスペルガーが頭をフルに働かせるには、短期記憶領域を使わないときには整理して余裕のあるフリーな状態にしておくことが重要である。

21 August 2009

欲求の有無

何も求めないのが最高の心の状態ではないか?欲求とは本質的に心の緊張を伴った不快なものである。欲求が満たされると、心の緊張が解けて快を感じる。我々はこの快を求めようとするがために無暗やたらに欲求するようになってしまっているのではないか。その結果、快よりもストレスを余計多く溜め込んでしまっているのではないか。

何も求めない心の状態が現れたら、それを最高のものとして歓迎し、欲求の対象を探すのをやめるようにしたい。

19 August 2009

家畜臭と過剰適応

日本に帰ってきて日本人と一緒にいたり、外国旅行中に日本人に会うに連れて日本人の特徴的なにおいに気づくようになった。微妙なもので適切に表現するのは難しいが、あのほのかにに甘ったるい肌のにおい。気の抜けるような緊張感のないにおい。
あれは家畜臭ではないかと思い立った。たとえるならば、ブロイラーや養豚のにおい。狭く閉じた空間に大量飼育されたにおい。管理された環境で育ったため、クリーンなんだけど、野性味の感じられないにおい。日本社会は日本人を家畜化してしまったのだ。政治家と呼ばれる人々がむやみやたらと使う安心して暮らせる日本というフレーズ。私には家畜が自分たちの飼育環境を向上させようと叫んでいるように聞こえる。日本はもはや十分に安全で便利なのに、もっともっとと言って社会(飼育舎)をハイテク化、システム化しようとする。安全で便利なのはある程度まではいいことなのだが、限度を超えると弊害ができてくるように思う。無条件の善など存在しないのだ。無条件に安全を求めても意味がないし、無条件に便利さを求めても意味がない。前提条件がはっきりしないためそうなった後のビジョンが見えない。これ以上安全・便利を突き詰めてみたところでそれは無駄なのだ。その逆に、わたしは行き過ぎた社会の安全・便利の弊害を指摘することができる。それは、日本人の海外においての適応能力のなさや変化や非常事態での弱さに見て取ることができる。進化論でいえば、ある環境において適応しすぎ、その環境において生存を効率化しすぎると、その者はその環境では非常にうまく生きていくことができるが、その環境の外に放り出されたり、環境が激変したときにうまく適応できないことが起こる、ということである。日本社会のガラパゴス化現象である。過剰適応には弊害があるのだ。
それでは私も家畜と同じではないかといえば、わたしは日本で生まれ、海外で育ったようなものだから、野性化した家畜とでも言えるだろう。

16 August 2009

ネガティブな感情の処理

ネガティブな感情の処理が下手だ。他人のように親しい友人と密かに愚痴を言いあったりしてネガティブな感情の処理をしないから、肝心のところ(みんながいる前等、公的な場)でネガティブな態度や言葉が出てしまう。その結果、みんなから悪意のある人間だと思われてしまう。特別に悪意の多い人間というわけではないのだが・・・。まったく損だ。
こういう社交的な常識も定型人のように本能的に無意識に獲得することができなく、意識的に明文化しないと理解できない。実行にも意識的な努力が要る。アスピーは大変なんだ。

03 August 2009

日本人=ブロイラー=日本車

東南アジアから日本に帰ってきて気付いたのは、日本人の肌の白さである。特に若い女の子の肌は白い。脚や腕を見ていると、きれいなことはきれいなのだが、なんだか健康的ではないなと思った。日焼けしていない青白い肌。外界の刺激にさらされていないため外傷や打ち身は少ないが生気がない肌。
ふと気付いた。ああ、この色はブロイラー的な白さだな、と。ブロイラーとは鶏の一種である。鶏肉の大量生産のために交配された養鶏場でよく見るタイプである。
若い日本人は鶏の世界で言うと、ブロイラーになってしまったのではないか?狭い環境の中で機械的に生産されて、ある目的のために用いられる。ブロイラーは工業製品であるため、品質がやや高く均一であることが好まれる。日本人の男と女は社会と経済活動の発展維持のために生産される。彼らは工業製品並みに規格化された教育システムや定型化された若者文化の中で効率的に生産される。彼らもブロイラーと同様に工業製品であるため、品質が一定であることを期待される。若い日本人は外傷の少なさと高い化粧技術によって平均的にグッドルッキングである。私が外国人に聞いた限りでは性格も平均的に良いとされる。そして、日本人の外見も性格も偏差が少ない。若い日本人は日本車のように、大衆好みのデザインと性能を持った工業製品になってしまったのではないだろうか?

31 July 2009

性的セカンドシチズン

私は日本で暮らしているときには、性的関係において常に劣っているような劣等感を感じてしまう。日本の女性は彼女らが属する小グループの内においてはふつうなのだが、小社会以上日本社会未満の中社会においては非常にシビアである。私が行ったアメリカや東南アジアなどの海外では道を歩いていて同世代の女性に会うと、アイコンタクトやスマイルされることがある。私はかなりシャイなのでこちらからスマイルしたりしないが、アトラクティブな女性に会えばアイコンタクトして気があることを示そうとする。日本に行ってアトラクティブな女性は大勢いるのだが、こちらから話しかけない以上、彼女らからポジティブなアプローチをされることは先ず無い。彼女らは概してツンツンしている。そのため、私は私は魅力が無いのではないかと自信を失ってしまって、女性にアプローチすることが出来なくなってしまう。日本においてはアスペルガー症候群であり、社会関係の少ない私は性的セカンドシチズンであるように感じてしまう。

17 June 2009

精神的領域

自分がアスペルガーだと知って、会社を辞めて、東南アジアを放浪して3ヶ月ほど。
私は狭い領域では生きられないのだなとわかった。物理空間の狭さではない。私は比較的狭い部屋に長時間いても平気である。しかし、ただぼんやりしながら、深いことを何も考えずに暇つぶしをしながら長時間を過ごすことはできない。物理的空間は閉じていても、精神的空間が開いていなければならない。それは社会的閉所恐怖症ということにも通じていて、社会というものも結局は私個人の脳内にしか存在せず、他人と社会を共有しているということは妄想であること。社会的プレッシャーを私が感じ、囲まれてしまったな、と感じると、私の精神活動領域が限定されてしまう。私は自由ではなくなってしまう。私の精神は多くのインディペンデスと、多くのフリーダムが必要である。そうなったらばもうそこを離れるしかなくなるのだ。そこにいるオプションは実際ない。強い衝動である。

私がインディペンデントにフリーに生きるためには、私の精神的領域を囲まれずに、オープンスペースとして保っておかなければならない。そこは聖域であり、誰に所有されることもできない。
物理的に自由、肉体的に自由だとしても、それは問題ではない。私の一番充実した時間は薄暗い静かな部屋で一人思考にふけっているときだ。他人には理解できない、広い精神世界での自由な精神活動がそこでは行われているのだ。

閉社会恐怖症

一般的な閉所恐怖症とは違って、物理的な閉じた狭い空間にいるのが苦痛なのではなく、閉じた社会(人間関係)にいると、不安な気持ちが高まって大きなストレスを抱えてしまうことを表現してそう書いた。たとえば学校。たとえば会社。たとえば友人関係。ひとつのソーシャルグループにずっといることができない。そこにしばらくいると、息が詰まるというか、不安が高まってきて、ストレスを知らぬ間に背負い込んでしまう。みんなで集まっていても、同じテーブルに座ってパブリックな会話をすることが苦手である。落ち着かなくてそわそわするし、多くの人の目を同時に気にしなければならないという衝動があるので、頭がカーッとなって論理的に考えられなくなる。ただ、人間社会のそばにいたいというアンビバレントな欲求もあるので、完全に離れてしまうのも心細く、悲しくなって、それもストレスになるため、会話の輪から少し離れた隅でビールなどをすすっていると少し安心する。
 
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