17 June 2009

精神的領域

自分がアスペルガーだと知って、会社を辞めて、東南アジアを放浪して3ヶ月ほど。
私は狭い領域では生きられないのだなとわかった。物理空間の狭さではない。私は比較的狭い部屋に長時間いても平気である。しかし、ただぼんやりしながら、深いことを何も考えずに暇つぶしをしながら長時間を過ごすことはできない。物理的空間は閉じていても、精神的空間が開いていなければならない。それは社会的閉所恐怖症ということにも通じていて、社会というものも結局は私個人の脳内にしか存在せず、他人と社会を共有しているということは妄想であること。社会的プレッシャーを私が感じ、囲まれてしまったな、と感じると、私の精神活動領域が限定されてしまう。私は自由ではなくなってしまう。私の精神は多くのインディペンデスと、多くのフリーダムが必要である。そうなったらばもうそこを離れるしかなくなるのだ。そこにいるオプションは実際ない。強い衝動である。

私がインディペンデントにフリーに生きるためには、私の精神的領域を囲まれずに、オープンスペースとして保っておかなければならない。そこは聖域であり、誰に所有されることもできない。
物理的に自由、肉体的に自由だとしても、それは問題ではない。私の一番充実した時間は薄暗い静かな部屋で一人思考にふけっているときだ。他人には理解できない、広い精神世界での自由な精神活動がそこでは行われているのだ。

閉社会恐怖症

一般的な閉所恐怖症とは違って、物理的な閉じた狭い空間にいるのが苦痛なのではなく、閉じた社会(人間関係)にいると、不安な気持ちが高まって大きなストレスを抱えてしまうことを表現してそう書いた。たとえば学校。たとえば会社。たとえば友人関係。ひとつのソーシャルグループにずっといることができない。そこにしばらくいると、息が詰まるというか、不安が高まってきて、ストレスを知らぬ間に背負い込んでしまう。みんなで集まっていても、同じテーブルに座ってパブリックな会話をすることが苦手である。落ち着かなくてそわそわするし、多くの人の目を同時に気にしなければならないという衝動があるので、頭がカーッとなって論理的に考えられなくなる。ただ、人間社会のそばにいたいというアンビバレントな欲求もあるので、完全に離れてしまうのも心細く、悲しくなって、それもストレスになるため、会話の輪から少し離れた隅でビールなどをすすっていると少し安心する。
 
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